日食の季刊誌『ひと粒』に掲載されたエッセイより、反響の多かった記事を紹介します。
筆者:中西久夫(なかにし・ひさお) PROFILE
昭和11年1月4日、鳥取県食品研究所所長で、後の日本食品工業株式会社創業者の中西秀夫と妻・ひでよの長男として、鳥取県境港市に生まれる。
昭和36年4月、レンゴー株式会社(本社/大阪)に入社し、15年におよぶサラリーマン生活を送る。
昭和51年7月、父・秀夫の体調不良の報を受け、同社を退職し直ちに帰郷。8月1日、日本食品工業(株)代表取締役に就任。(※同年11月6日、中西秀夫逝去。享年70歳)
平成12年8月、代表取締役会長に就任。
平成29年2月18日、病気のため逝去。享年82歳。
■無類の読書家で、文学、詩歌、美術、歴史、宗教、民俗学などに造詣が深く、生涯の蔵書は3万冊におよぶ(本人・談)。また、16歳から油絵を描き始め、晩年間際までキャンパスに向かった。日本洋画壇・新制作派の古茂田守介(1918~1960)に憧れ、高校在学中の3年間は、デッサンと古茂田調の絵の創作に明け暮れた。昭和30年に大学進学で上京後は、寸暇を惜しんで上野の美術展へ足を運び、本物の油絵と接した。高校時代に感銘を受けた古茂田守介による素描画、展覧会で初めて観た時は無名だった独立美術派の桜井浜江(1908~2007)の大作などは、後年入手が叶い、今も会社内に飾られている。
- 文人画家・長谷川利行の生涯 長谷川利行は現在、画家として著名である。その作品をもとめようとすれば、数千万円の金が必要であろう。しかし、当初利行が目指したのは文筆で生きることであった。「長谷川木(もく)葦(い)(利行のこと)集」によってその文筆のあとを眺めてみよう。
- 反戦川柳作家 鶴彬の生涯 一) 喜多かつじ一二(つるあきら鶴彬)は、明治四十二年一月一日石川県河北郡高松町で、父松太郎、母寿ずの次男として生まれた。八才で父が死亡し、母が東京へ再婚したので、彼を含む四人の子供たちは、伯父(喜多喜太郎)の養子となった。
- 詩人・黒田三郎(一九一九年~一九八〇年) 私が黒田三郎について書こうと思ったのは、最近、私が数十年、探し求めていた詩集「小さなユリと」を古書店の目録の中に見出し、購入したからである。
- 永遠の線を求めて 抽象絵画の先駆者・坂田一男の生涯 坂田一男は一八八九年(明治二十二年)八月二十二日、快太郎と八万重の長男として生まれた。
- 画家ニコラ・ド・スタールの生涯 私がド・スタールの絵を初めて見たのは昭和四十二年頃。美術雑誌の一頁を見てからである。その絵は一面コバルトブルーの虚空の中を数羽の黒い鳥がとんでいるという絵であった。私は一気に魅せられてしまった。
- 吉岡憲・最後の作品について 私は永らく吉岡の作品をもとめておりました。しかし彼の作品は州之内徹の手によって殆んどが仙台の宮城県美術館に収蔵されており、この世間にはないものと信じていた。しかし画廊さんのご好意によって、その幻の一作を入手することが出来た。私の喜びはこの上ありません。
- 画家鴨居玲と美術評論家坂崎乙郎 神戸の生んだ高名な画家が二人いる。小磯良平と鴨居玲である。前者は淡麗典雅な画風で知られ、後者はそれとは対称的な情感おもむくままの奔放な画風で知られていた。私は、鴨居玲の方を好む。
- わが師・杉本鷹画伯について 昭和三〇年春私は早大法学部に入学した。最初の下宿は高田豊川町の長屋風の建物であった。
- 髙間筆子 -早すぎる天才画家の死 今回は髙間筆子という奇妙な画家について、語りたい。何故奇妙なのか、その訳は現在彼女の絵は一点も存在しないということなのだ。
- 「恋の絵画」・狂狷の詩人画家―島村洋二郎 青い光、一つの不思議な香いを放つ青い光、無限に悲しく澄み切ってゆく、冷く、燃えひろがってゆく青い光」洋二郎は手帖にそう記した。
- 「月映え」の詩人・版画家 田中恭吉 今回は薄命の版画家・田中恭吉の生と死について語ろうと思う。
- 私の山中春雄 私は一人の薄倖の画家について語りたい。山中春雄(一九一九年〜一九六二年)についてである。
- イエスの恋した美女・マグダラのマリア―エロスとアガーペの聖女― イエスはおそらくヘロデ王治政(前三七〜四年)の末期に、ガリラヤの町ナザレに生まれ、紀元後三〇年頃ユダヤの都エルサレムにおいてローマのユダヤ総督ピラトラスにより十字架に処せられたものと思われます。
- ただ見るだけの・・・・・・ 私は大学を卒業して、昭和三十六年四月レンゴー株式会社に入社しました。初任給は一万七千円でした。
- 私の桜井浜江 私が油絵を描きだしたのは十六歳のときでした。某年某日、私は母より千円札をもらい右手掌に握りしめ、境線にのって米子まで行き、今もある画材店で油絵道具一式を買いました。紙幣は汗で湿っていました。絵具箱を買うには不足し、あとで絵具箱は手作りしました。
- 信太妻物語 小さな未熟児として生まれ、10才まで生きることは難しかろうと言われた私を、母は夜抱いて寝てくれました。そして私が寝入るまで、夜の闇の中で様々な昔語りを聞かせてくれました。
- 機能食品にこめる『祈りと癒し』について わが国では従来、身体に対する効果的な機能としては、1次機能(栄養)、2次機能(味覚)の2つの機能しか考えられていませんでした。しかし最近、食品はこの2つの機能のほかに3次機能(体調調節)を備えていることが明らかになってきました。