私は一人の薄倖の画家について語りたい。山中春雄(一九一九年〜一九六二年)についてである。

数十年前、私は秋の行動美術展の会場にいた。人影もまばらであった。私はふと「退屈した人」(図示)の前で足をとめた。明らかにフランスの新鋭画家ベルナール・ビュッフェの影響を受けた一〇〇号の油画であった。沈んだモノクロームの中に、男女の二人がものうげな顔で並んで腰かけていた。その絵は私を電撃のようにうった。署名を見ると「山中春雄」とあった。初めて見る作家だ。山中春雄のこの一点は私の心の底へ深く沈んでいった。何時の日か資金が出来たら「山中春雄」を買おうと思った。

それから二十数年を経て、山中春雄の絵を探し求めたが、後述するように、彼の死が異様なものであったせいもあって、彼のデッサンの断片さえもみつからなかった。ところが、ごく最近、東京のえびな古書店さんのご尽力によって、彼の小品の油画一点を入手することが出来た。その絵はまだ私の仏壇の中にある。法華経を読唱し、彼の鎮魂を祈っている。彼の生涯について書いてみよう。
彼は一九一九年に岡山で生まれ、一九三七年に十九歳で二科展に初入選し、大阪朝日新聞に「天才画家」として賞賛された。その後、行動美術を中心に発表をかさねた。彼は自由美術出身の堀内規次、佐田勝、佐藤真一らとともに結成した美術研究グループ「同時代」に所属し、独特のゴチック風フォルムとでもいうべき半抽象作品を多くえがいた。その絵はつねに灰色と藍色のふかい妖美さにみちた色彩につつまれ、黒と白とが交錯するふしぎなモノクロームの直線がはしる画面であった。

一九五五年、親友建畠覚造(彫刻家)らの協力で渡仏、二ヶ月余滞仏、帰国後三省堂で水彩画デッサン展を開催、翌年銀座村松画廊で個展を開くなど、メキメキ頭角をあらわした。その頃、浜松の中村画廊、大阪の日仏画廊、東京の南天子画廊などが彼の画業に注目しだしていた。丁度この時期「退屈した人」が発表され「みずゑ」(美術雑誌)誌上で原色版で発表された。いわばこのころが彼の絶頂期であった。

彼は無類の酒好きであった。親友の佐藤真一宅での酒宴のときなど「おい、奥さん、酒、おさけ、おさけや」などと叫び、彼は一座の中心にいて、その気焰はますます上るのであった。一種の酒乱とでもいうべきものであった。
深酒のせいもあってか、胃をいたく病んでいった。胃潰瘍のため、視力がおちてきて、ついに吐血するにいたり、手術のため入院したりした。この頃十数年つれそった夫人とも別居し、横浜の独居生活からほとんど外出しなくなり、制作に行きづまり、健康不安と生活苦に追いつめられ、親友に向かって「もうオレには何も描けないかもしれない」とつぶやく彼の顔は蒼白であった。
闘病生活からようやく回復した一九六〇年春のある日、彼は「いいパトロンができた」と親友の佐藤に告げた。アトリエも新築してもらい、台所にもステンレスの立派な流し台をつけたと、一時彼は嬉しそうであった。一九六二年の九月、行動美術展のとき、美術館の食堂で親友の佐藤、建畠らに、彼は自慢し、いかにも得意気であったが、その三ヶ月後惨劇は起こった。

一九六二年の暮れ、国電横浜駅近くの一軒家で惨劇は起こった。その殺人現場は凄惨をきわめた。柱・障子・畳に無数の血痕がとびちり、凶行がおこなわれた六畳間は血の海だった。山中春雄は同棲相手のパトロンの男に全身を十数ヶ所短刀で刺され絶命していた。享年四十三歳。
佐藤らは全く知らなかった。ジャン・コクトーやオスカー・ワイルドあるいは三島由紀夫につらなる彼のヴイタセクスアリスについて。

佐藤真一は言っている。ぼくたちは山中の死体を火葬場におくり、骨を拾い、バスで火葬場のある丘を下った。バスの窓外に目を放つと光を含んだ灰色の晩秋の空が見えた。「山中の絵のようだ」と誰かがその空を指してつぶやいた。非業の死をとげた孤絶の天才画家山中春雄のために、折口信夫の鎮魂頌を送ろう。

現し世の数の苦しみ
たゝかひにますものあらめや
あはれ其も 夢と過ぎつゝ
かそけくもなりにしかなや

二十三年二月一日深更 中西 久夫

《参考文献》
1額のない絵 窪島誠一郎
2異端の画家たち 匠秀夫
3折口信夫・ちくま日本文学集〇二五

今後、私は古代史・民俗学からしばらくはなれて、私の愛する画家・詩人・作家について語ろうと思う。その人々は全て薄倖のうちに天折して行った人々についてである。 次号では「版画家・田中恭吉」について語ろうと思う。