文人画家・長谷川利行の生涯

長谷川利行は現在、画家として著名である。その作品をもとめようとすれば、数千万円の金が必要であろう。しかし、当初利行が目指したのは文筆で生きることであった。「長谷川木(もく)葦(い)(利行のこと)集」によってその文筆のあとを眺めてみよう。

長谷川利行は現在、画家として著名である。その作品をもとめようとすれば、数千万円の金が必要であろう。
しかし、当初利行が目指したのは文筆で生きることであった。「長谷川木(もく)葦(い)(利行のこと)集」によってその文筆のあとを眺めてみよう。
「長谷川木葦集」は大正八年九月三日発行。非売品で、奥付によると著者兼発行者は長谷川利行とある。菊半截百一頁の小歌集である。それには彼の全作品が掲載されている。それによって、その一部をのぞいてみよう。

み社(やしろ)のしらけき朝きよの打つかしわでの ひびき堂にこもれる

町並木あかしやの木の春(はる)埃(ほこり)ややに疲れの身を運び行く

木洩(こもれ)日(び)の窓掛ちかき我れの顔卓をへだてゝ 家婦といそしむ

己が身(み)の影もとゞめず水すまし河の流れを光りてすべる

命(いのち)いま黙(もだ)し足(たら)へりふりそゝぐ日だまりの丘草は葉を生む

妄念(もうねん)の新(あら)たまりぬる林間にしばし憩ひて 吸う煙草かな

村娘隣の縁に来てうたふ唄のとぼしさ子は ねむるなり

子を抱きものいふわれの唇に幼な手をやりむずかりてやまず

人知れずくちも果つべき身一つの今かいとほし涙拭はず

自卑(じひ)の心いよゝつぶさなりわきたちの涙をおさへ思いつゞくる

確信が出来ないのです確信することはおそろしい固執だからです。

やさしい自分のため自分自身のために努力を惜しみません。

此の己(おのれ)泣くかと思(も)へばからつぽの心となりてゆくが悲しき

魂にとぢこもりつゝ落涙す松山の庭鴉啼き過ぐ

湯けむりの飯佛前に供へつゝ生きのび来たり寂しくなれり


第二号「火岸」は月刊単行本、長谷川利行の個人雑誌の第一号で、大正十二年十一月十五日発行、著者兼発行者長谷川利行(東京市外、日暮里六二五)と奥付にある。その中から数首をえらんでみよう。

大地震(大正十二年九月一日正午)

なつ草に野菊咲くなる一すぢ路(みち)大震災の空の清(すが)しさ

地(つち)のゆれ強まり大けくうなぐわし佇(たたづ)む人は倒されにける

見上ぐらくかの火葬場の煙突は挫けて遠街(まち)に火の手は見ゆる

醉詩(D)

金ガナイ
金ハ必要ヲ致シマス
バカ!
タマラナイ奴輩!
御免下サイ

醉詩(E)


彼ハ云ッタ
彼ハ約束シナカッタ

浴する女の泉

男が云った 冥府への光明さであります

女が云った。台風の霊が、歩調で、輝くことです。
おゝ尊貴。
(彼女がふるえてみえます)
プロフイル。
峡谷に埋れて。
狂暴。 (参考No1)

画家としての長谷川利行
長谷川利行が画家生活をはじめたのは、三十才すぎ、大正十年頃からだったと思われる。ふと、突然に、油絵にとりつかれ、脇目もふらずに油絵を描いて、それから二十年ばかり。画狂人のような生き方をしつづけたのであった。
どこでどういうふうに油絵を学んだのか誰にも分からない。見よう見まね、一人勝手に描きだしたと、そう単純に思うしかない。
二科展に出品して樗牛賞をとった。また一九三〇年協会展で奨励賞をとった。新人ながら利行はスターであり、流行のフォーヴィズムの画家としてにわかに注目を集めることになった。(参考文献2・3)
利行は東京大震災で、灰燼に帰した、浅草本所方面を足まめに歩いている。憑かれたように、彼が悪友たちと彷徨した吉原は、白札赤札の娼妓の死体が累々とつらなり、その数千五百をこえる酸鼻な情景を呈していた。

かくらくの惜しきいのちを吉原の魔の池べより屍(かばね)を上(あ)ぐる
懇(ねんご)ろに屍を積みて大き火の吉原廓の あとどころかも


彼は上野広小路で、焼けあとの灰かきを手伝い、日暮里へ帰ると疲労のため三日ほど床についたりした。 受賞によって一時的に名は上がったものの、彼の実生活は悲惨であった。
最初の日暮里時代の住居は、日蓮宗中山教行者の家のはなれであった。ドブの臭気が鼻をつき、玄関を開けると上り框から四怗半にかけて、幾百枚とも知れぬデッサンが散乱していた。となりの六怗はもっと異様であった。一隅にキャンプ用の天幕が張られ、彼はその中に臥ていた。なぜ天幕が必要かと云えば雨漏りに備えるためであった。彼は蒲団(ふとん)を一枚ももっていなかった。天幕の中には一面の古新聞やボロが落ち葉のように積み重ねられ、彼はモグラのようにその中にもぐって寝ていたのだ。(参考文献4)
彼は居所を転々とした。東京市営竜泉寺宿泊所、コンクリート造りの暗く冷たい合部屋、それから泪橋の木賃宿紅葉館に、土方、淫売婦、空巣らと生活を共にし、次は新宿旭町のドヤ街に住み、ついで江東区船堀、泪橋、三河島の救世軍宿泊所へと転々とした。 昭和十年頃、木賃宿は一泊二十銭、浅草や千住の大衆食堂で清酒一合十銭、牛めし五銭、おかわり三銭、一日ギザ一枚あればどうにか生きていけるのであった。彼はよく云っていた。「人生とは豚臭のようなものだ」。まさに彼は生涯悪臭をはなち続けた。
その悪臭の彷徨うなかで昭和十五年五月十七日、一窮民として板橋養育院に送られ、いくども脱走を試み、町へ出たい、町へ出たいと切望しながら、誰ひとりみとる者もなく血を吐きながら彼は死んだ。十月十二日と記録され、病名は胃ガン、享年推定五十才。

十月十九日 中西 久夫

《参考文献》
(1)夜の歌 長谷川利行とその芸術 矢野文夫 編
(2)野獣派長谷川利行 矢野文夫 編
(3)長谷川利行画文集・どんとせえ! 監修 酒井忠康
(4)異端の画家達 匠 秀夫 編
(5)きまぐれ美術館 州之内 徹
(6)長谷川利行画集 画集刊行会


日食オンラインショップ
お問い合わせ contact
0120-039-249 受付時間 平日午前9時から午後6時まで
【住所】〒684-0043 鳥取県境港市竹内町639 【TEL】0859(44)0218 【FAX】0859(42)6456 facebookブログ