永遠の線を求めて 抽象絵画の先駆者・坂田一男の生涯

坂田一男は一八八九年(明治二十二年)八月二十二日、快太郎と八万重の長男として生まれた。

坂田一男は一八八九年(明治二十二年)八月二十二日、快太郎と八万重の長男として生まれた。一九〇三年(明治四十一年)県立岡山中学校(現朝日高校)を卒業、その後、一九四一年(大正三年)上京、岡田三郎助、藤島武二等の指導を受ける。

一九二一年(大正十年)五月十七日、神戸港より伊予丸で渡仏、七月パリにつきモンマルトルに住む。以後在仏のままフェルナン・レジェ(一八八一年―一九五五年)に師事する。その間サロン・ドートンヌ等に出品し、その会員となる。
一九三三年(昭和八年)十一月二十七日、照国丸にて帰郷。以後玉島市乙島のアトリエにこもり、画作にひたすら打ち込み、当時の画壇にこびることもなく、主体的で孤独な画作を生涯つづけた。
一九五五年(昭和三十年)九月、妹日出あての書簡のなかで次のように書いている。


万一の場合はよろしくたのむぜ
ヤル可き事は山積、老いても益々
若く且つイソガシイ、只肉体ノミ
ヨボヨボという現況!

一九五六年(昭和三十一年)アトリエにて脳出血のため死去、戒名・妙法智泉院光雲日彩居士。妙照寺苑内の先祖代々の墓地に眠っている。享年六十八才。

ややに移りきし 夕日のかげの
残るわがいのち今か消えゆらん
みつかいよ つばさをのべ
永えのふるさとへみちびきゆけ
(妹・日出の詩える)

坂田一男の画業が生前認められることはなかった。死の翌年、昭和三十二年四月ブリヂストン美術館で開催された「坂田一男遺作展覧会」でのカタログのなかで美術評論家・柳亮は「坂田一男の名は、日本人で一番最初に抽象絵画を手がけた画家として、ながくわが国の絵画史上に残るであろう。」と述べている。
私は絵画とは己の血液と汗で描くものだと思っている。私はそうした画家たちの作品のみを集めて、四十数点を小社の壁に掲げている。ただ虚名と画価のみ高いだけの画家は全く評価しない。ある者は自殺し、あるいは貧困の窮状のなかで斃死したこれらの早逝の画家たちへの鎮魂のためである。

坂田一男が「不運な」画家であり続けたことは事実であろう。しかし「不幸な」画家であったとは決して言えないだろう。 抽象画ほど画家の想いをピュアに伝えるものは他にない。 彼はピュアなままで生き続け、ピュアなままで死んでいったのだ。

私が大学二年生の時(昭和三十一年頃)、岡本太郎の講演会が大隈小講堂であった。その頃、岡本太郎は中年の最も油ののり切った頃であったと思う。 彼の講話の一部を五十数年経った今でもはっきり覚えている。彼はこう言った。
「私はどう描けば他者(・・)にわからない絵になるのかと思いつづけて描いている。しかし、最近、植村鷹千代という美術評論家が出てきて私の絵がわかると言うので、私としてははなはだ困惑している」と。 坂田一男もまた同じ想いであったろうと想う。
「作品は絶対にオリジナルであること、前衛は無位無冠、ヘタクソの寄合也、ただただ式に上手になるなかれ。まだまだ上手すぎる。下手に下手になりなさい。個性はそこに!たれもまねの出来ない境地なり」
坂田はものまねだけのモダンアートを嫌っていた。「われわれの前衛はそんなものではない。バックボーンと伝統がもっとも生きているのは前衛ですよ。無意味な線や型、色は絵画にはないはずです。」(弟子・平松輝子あての書簡より)

坂田一男は死の瞬間まで前衛であり続けたのだ。彼の書簡集の中から要約して、次に書く。
「梅原、安井の輩に至っては沙汰の限りである。お互いに拙い絵を描きましょう。目標が絶対である程絵は拙く、前進は続きます。ウマイ絵は芸術院の方々のやることです。傑作は拙い絵から生まれるのです。」

もし彼が現代に生きていて、現在の画壇をみてどう評価するのであろうか。前衛が全て喪失してしまったこの画壇をみて。
四月二十九日
中西久夫

《参考文献》

永遠の線を求めて 山陽新聞社
宿命の抽象画家・坂田一男 小倉忠夫編
没後二十年・坂田一男展 大谷記念美術館





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