画家ニコラ・ド・スタールの生涯

私がド・スタールの絵を初めて見たのは昭和四十二年頃。美術雑誌の一頁を見てからである。その絵は一面コバルトブルーの虚空の中を数羽の黒い鳥がとんでいるという絵であった。私は一気に魅せられてしまった。

私がド・スタールの絵を初めて見たのは昭和四十二年頃。美術雑誌の一頁を見てからである。その絵は一面コバルトブルーの虚空の中を数羽の黒い鳥がとんでいるという絵であった。私は一気に魅せられてしまった。

〈生い立ち〉
ニコラ・ド・スタールは一九一四年一月五日、帝政ロシア末期、首都サンクトペテルブルクに生まれた。父は名門貴族ド・スタール・フォン・ホルスタイン将軍で、母も富豪の娘であったが、一九一七年のロシア革命で、父は将軍職を解任され、一家は二年後にポーランドに亡命する。しかし、この地で失意の父母をあいついで失い、三人の孤児となったド・スタール兄弟は、母の友人のつてで、ベルギーのロシア人に引き取られた。
幼い頃、実母に絵の手ほどきを受けていたド・スタールは、高校卒業後土木工学の道へ進むことを望む養父の期待を裏切り、一九三三年、ブリュッセルの王立美術学校に入学した。そして絵画の研究のために、オランダ、フランス、スペイン、モロッコと旅行を重ね、一途に絵の道を進み始めた。
一九三七年八月、二十三才のド・スタールは、旅先モロッコのマラケシュでフランス人女性に出会います。彼女はジャニーヌ・ギューという画家で、別居中の夫との間に息子を持つ四才年上の女性でした。二人はアルジェリア、そしてイタリアと、一緒に旅を続け、一九三八年九月パリに新居を定めると彼女の連れ子と三人での共同生活を始めた。

「若いころ何年か、ぼくはジャニーヌの肖像を描きつづけた。肖像、本当の肖像というものは、やはり芸術の―頂点だ。そう思ってぼくは肖像を二点描いた。それを眺めながらぼくは自問した―いったい何を描いたんだろう?生ける屍か、死せる生きものか?...それで少しずつぼくは対象を写実的に描くことが窮屈に感じられてきた。なぜなら、ある対象について、たった一つの対象についても、ぼくは無限に多くの他の共存する対象に悩まされるからだ。何であれ、その対象だけを考え続けるなんて絶対にできるものではない、じつにいろいろな対象が同時にあるため、受け入れる可能性が消しとんでしまうのだ。そこでぼくは自由な表現を模索したわけだ。」

画家画集の中に女性の裸身らしいぼんやりとした画が二枚あるが、それがジャニーヌの肖像であろうか。

ド・スタール一家の生活はどん底だった。飢えに苛まれたド・スタールは家具職人のもとで働いたり、建物のペンキ塗りをしたり、ジャニーヌも絵を売るのに努めました。
しかし、やがて彼らはニースでの生活に見切りをつけ、一九四三年九月、知人の画商を頼って、ナチス占領下のパリに出ることになった。
翌年個展を開催したが、状況は好転しなかった。そして極貧の中、ジャニーヌの病状は悪化し、一九四六年二月、彼女は帰らぬ人となった。画家はこの頃から憑かれたように制作にのめりこんでいくのです。

※パリ、一九四五年四月十八日 ジャン・アドリアン宛ジャン、水道もガスも明日切られます。一時に総くずれでぼくはほとんど何もできません。

※ パリ、一九四六年六月三日 ギルー夫人(ジャニーヌの母)宛ジャニーヌは一九四六年二月二十七日、午前2時45分、息をひきとりました。モンルージュ墓地の北口に4平方メートルの土地を借受けることができました。三月四日、彼女のお気に入りの着物を着せてから、私たちは棺をとじました。

〈憑かれたように描く画家とその終焉〉
一九四十六年五月、フランソワーズ・シャブ―トンと再婚、彼女との間に2男1女をもうける。

一九五〇年代に入ると、フランス政府によって作品も買い上げられ、ニューヨーク、パリ、ロンドンでも個展を開催されるようになり、経済状況も好転した。
一九五三年十一月には、メネブルの古城を買い取る。この古城は、彼に似つかわしい建物で、大きな孤影をひいて、谷にのぞむ岩鼻に立っている。九月になると、明るいアトリエに移った。家族はゴーゲ街の家に残し、一九五五年夏にパリとアンチーブで開かれる個展のための絵画制作に全速力でのめり込んでいったのです。
彼は描きに描く。たしかにものの怪にとりつかれたように。ジュルジュ・ブラック(彼の親しい画家の一人)はこう言った。「彼は証明しようとはしない。人の心をかき乱そうとし、そしてそうする。彼は人間に関心を寄せることはない...彼の絵画は、しかし、安全に絵描きの血で構成されているのだ。」

※ ジャック・デュブール宛短信・一九五五年二月二十六日ぼくを工場だと思わないでくれ、これでもできるだけはやっているのだ。
一九五五年三月十四日大作「コンサート」(3.50×6.00)にとりかかる。(絶筆となる)

極度に神経をすりへらしている、数週間というもの眠ろうとしても眠れないのだ。
一九五五年三月十五日、描けない。郊外に出てみたが何の甲斐もない。
彼は夜、アトリエのテラスから8メートル下の街路に身を投げた。絶命享年四十一才。

画家の絵の一枚は、東京国立美術館の片隅にひっそりと掲げられている。私は上京の度に美術館にむかう。画家の絵は金山康喜の隣に静かにたたずんでいる。ド・スタールも夭折であった。そしてまた金山康喜も三十三才で睡眠薬による自死であった。

〈参考文献〉
・画集「ニコラ・ド・スタール」(仏文)監修ジャン・ピエール・ジョフロイ
・ニコラ・ド・スタールの手紙 大島辰雄 訳編

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