吉岡憲・最後の作品について

私は永らく吉岡の作品をもとめておりました。しかし彼の作品は州之内徹の手によって殆んどが仙台の宮城県美術館に収蔵されており、この世間にはないものと信じていた。しかし画廊さんのご好意によって、その幻の一作を入手することが出来た。私の喜びはこの上ありません。

吉岡憲・最後の作品について

私は永らく吉岡の作品をもとめておりました。しかし彼の作品は洲之内徹の手によって殆んどが仙台の宮城県美術館に収蔵されており、この世間にはないものと信じていた。しかし画廊さんのご好意によって、その幻の一作を入手することが出来た。私の喜びはこの上ありません。
しかし、吉岡憲とはどういう画家だったのだろうか。年譜によりますと、吉岡は現在の世田谷区柏谷にて一九一五(大正四)年に生まれた。若い時より、画家を志し、東京美術学校西洋画科(現在の東京芸大)に入学したが、両親や親戚の反対にあって、画業を続けることはできなかった。

吉岡はその後渡満して聖ウラジミール専門学校を卒業し、約四年間におよぶハルピン滞在を経て、一九四〇(昭和十五)年に帰国するのだが、その異境での修練も、自らが納得できる画境を獲得するための必然の彷徨であった。
一九四一(昭和十六)年に第十二回独立美術協会展に初入選、その年の春に落合菊と結婚、翌年に長男が誕生した。しかし彼は十九才で夭折してしまった。
一九四三(昭和十八)年に陸軍報道班に所属し、インドネシア、ジャワに渡って、文化指導を行った。そして、インドネシアから帰国後は野口弥太郎、麻生三郎、松本竣介らと交遊をむすび、一九五〇(昭和二十五)年ごろより、長崎、青森、千葉などを訪遊する。その後、独立美術協会に所属し、吉岡憲、独特の暗い沈んだ色彩の風景画を多く発表した。風景画、人物画をよくしたが後になって華を中心とする画風に変化していった。

吉岡が亡くなって十年後にひらかれた現代画廊での遺作展で画友麻生三郎は次のように評している。「吉岡君は自分の生命と彼の絵のフォルムとを交換しながら、よりよいデッサンを描き続け絶えず描いた。独立展では彼の仕事は他と変わってみえた。心情的なものよりも、客観的な面を多くもっていたからだ。彼の行動をみていると、気分的に仕事をしていたように見かけられたが、彼の作品はその逆で気分な主情的なものよりも、客体を真正面からつかむ意欲と情熱があって、客体に気持ちをひかれているものが強く感じられた。彼の仕事は客観的な写実主義の態度がはっきりしていて美しかった。いつそのような確信ができたのであろうか。」
ハルピンでの美少女リーシとの恋、そして結婚後、菊夫人が陥った一時的な精神的錯乱への献身的な介護、インドネシアでの従軍生活、仄聞されている自からの出生についての疑惑、そんないくつもの精神的煩悶のなかで、人間が人間らしく生き抜く困難さとそれゆえに人間同士が傷つけあって生きていかなければならない現実の業ともいえる悲しみ、「人間はなぜ生きなければならないのか」この根本的命題について、つきつめて悩みぬいた画家であったのではなかろうか。

彼の死は唐突にやってきた。一九五六(昭和三十一)年。彼は東中野の踏切で、進行して来る電車に向かって、自らの身を投じて自殺した。画家としてこれからという時であった。享年四十一才。合掌

画家のために中原中也の哀歌を贈ろう。

今宵私の命はかがり
君と僕との命はかがり
僕等の命も煙草のやうに
どんどん燃えてゆくとしきや思へない。


九月二十二日 秋分の日に中西 久夫

〈参考文献〉
夭折画家ノオト 窪島誠一郎
吉岡憲の画業展 後藤洋明
中原中也全集 角川源義

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