画家鴨居玲と美術評論家坂崎乙郎

神戸の生んだ高名な画家が二人いる。小磯良平と鴨居玲である。前者は淡麗典雅な画風で知られ、後者はそれとは対称的な情感おもむくままの奔放な画風で知られていた。私は、鴨居玲の方を好む。

神戸の生んだ高名な画家が二人いる。小磯良平と鴨居玲である。前者は淡麗典雅な画風で知られ、後者はそれとは対称的な情感のおもむくままの奔放な画風で知られていた。
私は鴨居玲の方を好む。

(一) 鴨居玲の経歴
鴨居玲は、昭和三年二月三日、大阪・豊中に生を受けた。父は悠、母は茂代である。玲は三人兄弟の末子で二男であった。父は新聞記者で、勤務地は次々と変わり、各地を変転とした。
鴨居玲は、誠に落着がない性格で、のちに住所やアトリエを転々とするのも、この幼児体験によるものかもしれない。
玲は小学校、中学校を終えて、当時金沢市に新設された金沢美術工芸専門学校に昭和二十一年八月に入学した。玲はアカデミックな画法になじめず、もっぱら人体の瞬間的な動きをとらえるクロッキイの方を好んだ。玲は在学中より異彩をはなち、数々の展覧会等に入選をはたした。昭和二十五年、玲は美専を卒業した。
玲は上京して乃村工芸社に勤務し、映画の看板画を描いたりしていた。 その間、玲は油絵に精進し、主として二紀会に出品し、徐々に画家としての生き方が形成されていった。

(二)坂崎乙郎の登場
玲が画家として成長していく過程の中で、坂崎乙郎(美術評論家)との交友があり、坂崎は玲の画作をつねに各種評論で称揚し続け、玲とのますますの交情を深めていった。
坂崎乙郎の略歴をかいておこう。昭和二年、東京に生まれる。早稲田大学院美術史学科に学ぶ。卒業後西ドイツに留学、その後早稲田大学教授となり、新鋭の美術評論家として有名になりつつあった。
私は坂崎乙郎の著書「夜の画家たち」〈昭和三十五年十二月発行・雪華社〉を初めて読んでひどく感動した。その後乙郎の著作のほとんど(詳細は後記)を読み、そしてその中で玲の絵につき学び、ますます深く傾倒していった。
私が上京のおり宿としているホテルの近くに喫茶「モト」があり、そこに玲の六十号の油画人物像が飾られている。それを見るために上京の度に「モト」に通っている。

(三)玲と乙郎の交情
玲は大酒家であった。一方乙郎は一滴の酒ものめなかった。しかし二人とも昭和二、三年の生まれで殆んど同年令であり話が合い、また二人ともウツの性格であった。

二人の対談集「踊り候え」〈玲の著作〉があり、その要約を次に掲げてみよう。

・心地よい絵だってあっていいと思いますけどね。私の場合はやはり、油絵というものは、文学だってそうだけど、あるショックを与えねば意味がないと思う。そこで人間とは何かというようなショックです。ピカソの言葉で「アパートの壁紙になるな」という言葉があります。私の一番好きな言葉です。うすっぺらでただ心地のよい壁紙のような絵は私は意味がないと思う。
乙郎 ・鴨居さんは彼岸に向かっている。神とか、実存とか、ふつうわれわれの眼に見えない形をとらえるとか、鴨居さんの表現はものの核心を突いているけれど、しかも近よりがたい距離、心理的距離、深い奥行があるというのも、そのせいではないか。あの距離は制作中の鴨居さんにも意識され、出来上がってもなかなか離れてくれない。見る側はそこにひきよせられ、新しい見方を教わる。一般には絵描きさんというのは絵を描いていく過程で、生より死の方向へ向かう人が多いと思うのですが、鴨居さんの場合は死から出発していると私は思います。

二人はよく自殺について語り合った。玲の後半生は、死に至る病を生きた。
玲は自分自身の死について、こう考えていた。
自動車の排気ガスを車内に引く。後部の排気管にホースを差し込み、もう一方の端を車の窓を細く開けて入れ、窓の隙間を目ばりする。そして正装し、べろべろに酔って、自動車の中に入る。睡眠薬を一つかみ口に放り込みウイスキーを一気にあおって車内で昏倒する。排気ガスはやがて車内に充満し、自分は心地よい意識の混濁の中に沈んでいく。
鴨居玲の死は昭和六十年九月七日未明であった。想像していたとおりの自死であった。享年五十七才。それから三か月後、十二月十二日、坂崎乙郎もまた死んだ。縊死であった。享年五十七才。

合掌・ 中西久夫

〈参考文献〉
鴨井玲画集 鴨居玲
踊り候え 鴨居玲
一期は夢よ鴨居玲 瀧悌三
鏡の中の幻想 坂崎乙郎
夜の画家たち 坂崎乙郎
現代画家論 坂崎乙郎
視るとは何か 坂崎乙郎
絵とは何か 坂崎乙郎
女の顔 坂崎乙郎
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