わが師・杉本鷹画伯について

昭和三〇年春私は早大法学部に入学した。最初の下宿は高田豊川町の長屋風の建物であった。

昭和三〇年春私は早大法学部に入学した。最初の下宿は高田豊川町の長屋風の建物であった。早大生を中心に二〇名程が暮らしていた。一室二人の相部屋制であった。私は教育学部の学生M君と同室で暮らし始めた。
その頃、生まれて初めて中華そばを食べ、世の中にこんなうまいものがあるのかと感動した。価格は三〇円で大盛になると五〇円であった。ちなみにコロッケは一ケ五円で、美人の娘さんが手際よく次から次へと揚げていた。
貧乏学生の私はこのコロッケにはずい分と助けられた。三食コロッケということもあった。家庭教師の口が二件みつかり、1件七千円であり、合計14,000円の収入となり多少余裕の出来た私は二年生の時木造アパート「朋来居」の一室に移った。自炊がたてまえで、共同の水道とガス台が廊下のはしに設置されてあった。

下宿より数分のところに「美術研究所」があった。所長は杉本鷹氏であり、私はすぐ夜の部を申込んだ。二階建ての建物で二階には母と二人杉本氏は住み、階下の六坪ほどの土間を研究所として、美術教育の場としていた。

杉本氏は明治三九年大阪生まれ、本名孝一、昭和一六年に二科展に初入選、同二一年日本美術会に参加、同二二年耺業美術協会に常任理事として参加、同研究所で指導に当たる。
その頃、熊谷守一が指導に来ていた。守一は杉本氏の絵について、「たてにみてみる、横にみるといい。足の形がむつかしい。少し大きめにかいた方がよい。小さくかいた方が、おさまりそうだが、その反対で、大きくした方がおさまるものなのです。」「びっこになっていいです。少々違う方が美しいのです。同じものが並ぶとしまつが悪い」と云ったり、「杉本さんは、始めうちは色でホラをふいてだんだんおとなしくするんだナ」
守一の批評は、美術批評家にはとてもできないものだ。真実の批評とはこういうものなのだ。

杉本氏は昭和七年に東京へ出て来て、二科の研究所へ通い始めたのだ。二十六才であった。 生まれは大阪で、生家は大きな洋洒問屋であった。その生家が没落した。氏は老いた母親と二人で東京へ出て来た。
高田の馬場の二階建の借家に入り、その一階を研究所とした。
杉本氏は五尺二寸位の短躯で、幼い時に患った背椎カリエスのため、頭部の後ろがコブのように盛り上がり、傴僂であった。
少年時代の氏は白樺派に憧れる文学青年であった。
武者小路実篤に心酔していた杉本少年は、彼が大阪に来るときは、いつも大阪駅へ迎えにいったという。

私は、夜の部の裸婦デッサンに精励した。そのデッサンの数枚を今もうちに保管しています。
研究所は財政難でいいモデルはやとえなかったらしい。 モデルはいつも変わらぬ中年の女で乳房も垂れ下がり、やせていてとても魅力のあるモデルとはいえず本人自身もどこか投げやりなところもあった。
杉本氏の絵は全て小品であった。十五号が最高でほとんどが、十号以下の小品のみである。対象は裸婦のみ。「東京で俺ほど裸婦を描いた人間はいないであろう」はご本人の弁である。
氏を助けるために、当時は皆殆んど無名であった画家たちが指導に来ていた。 上野省策、鳥居敏文、鈴木新夫等の人たちが代わる代わる指導に来た。
他に熊谷守一、岡本唐貴、赤松俊子、難波田龍起、麻生三郎、吉岡憲、吉井忠、大野五郎、井上長三郎、中谷泰等々である。
これらの画家たちは後年、日本画壇の中枢となり、画価も高くなり、とくに難波田龍起の絵などは号(ハガキ1枚大)数十万円位で、私が買おうとしてもとても手が出せない。
私は毎晩熱心に通っていたが、当時「安保反対」のデモが毎日あり、私もそれに参加していて、数十日も行かない夜があった。 デモのあいまにいつか寄ってみると研究所はカーテンがしめられ扉も開かなかった。
あとで私は知ったのだが、その時画伯はすでに亡くなっていた。
昭和三六年の暮れにお母さんが亡くなり、遺骨を持って大阪へ帰った画伯は旅先で肺炎を患らったあげく、東京へ戻って間もなくたおれ、母親の死の一か月後に亡くなってしまった。氏の母上は白髪のスラリとした上品な方であった。
氏は一九〇六の生れで、死亡は一九六二年、享年五六才。短い生涯であった。

一年程前、画廊のご好意で、誌面にある十五号の裸婦像を入手した。
画廊の話では、死後その膨大な油絵、デッサン等は全て散逸して、かろうじて残った最後の一点がこの十五号でしょう。 とのことであった。画伯の死後、人々は云いあった。
「お母さんが呼んだんだ。」「過労ですよ」氏の句帖の中に一句ある。

小座敷に風吹きぬけて夏をはる

私が絵の指導をうけた唯一のひと、杉本鷹氏のためにそのぼだいをとむらって読経しようと思う。

中西 久夫
柔和質直者 則皆見我身
在比而説法 諸佛壽無量

(妙法蓮華経如来寿量品第十六)

≪参考文献≫
「気まぐれ美術館」 洲之内 徹

次回は神戸の洋画家鴨居怜と美術評論家・坂崎乙郎について書こうと思う。鴨居怜は坂崎によって有名になったが、その頂点において自死した。それと同時に坂崎も死んだ。自死なのか単なる事故死なのか、それから先はミステリーの霧の中にあって見えてこない。

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