「月映え」の詩人・版画家 田中恭吉

今回は薄命の版画家・田中恭吉の生と死について語ろうと思う。

今回は薄命の版画家・田中恭吉の生と死について語ろうと思う。

1田中恭吉の生いたち
恭吉は一八九二(明治二十五)年四月九日、和歌山市新堀北ノ町三丁目五番地に、父・正堅、母・なをゑの四男として生まれ、十八歳までをその紀ノ国ですごした。一九〇三(明治三十六)年、最愛の母なをゑを亡くした。その二年後、恭吉は県立徳義中学校に最高点の成績で入学した。父・正堅は妻の死後、三人の妻をむかえては次々と離縁し、漁色家ぶりを発揮していた。

まことこの監獄に似たる生活の
のろはしさよと千断り草かな
われはただ黙しつつ
わがみの外のすべてを憎みたり、
呪ひたり、
一七、八のそのころ。(恭吉のうたえる)

父の女あそびをはじめ母・兄の他界など、思春期の恭吉の心は傷ついていった。

かりの世の
かりのいのちの
ふるまいや
わがうたふ歌
さびしかりけり

つらくかなしい、そしてうめくような寂寥感にとざされた歌である。

2上京
一九一〇(明治四十三)年三月、恭吉は東京美術学校西洋画科を受験するため上京した。しかし恭吉はこの受験に失敗し、予備校として白馬会研究所に入り、再度美校の受験を志した。「朝は八時から十二時まで、夜は七時から九時まで研究所へかよって、...もう着物は絵具だらけで、まるでペンキ屋みたいな有様です。それでゐて中々画はうまくなりません」(恭吉の友人あての手紙より)
恭吉の希望もむなしく、白馬会は一九一一(明治四十四)年三月に解散した。その同じ月の二十五日、房総の漁夫群像を画いた「海の幸」によって、一躍有名となった若き天才画家・青木繁が、二十八歳八ヶ月の若さで血を吐いて病死していた。

3美校への入学
一九一一(明治四十四)年四月、恭吉は美校日本画科予備科へ入学した。「小生は毎日美校へ神妙に通ってゐます。何分研究所あたりと違っていろいろの設備も完全ですし、校内の景色もよしするわけで愉快に勉強できます」(兄貞吉への葉書)
美校最初の夏休みが終った頃から、恭吉の心にはある微妙な変化がおとずれていた。友人たちのグループともはなれ、ひとりぽつんと教室の一隅で黙想することが多くなった。「夏休み前の自分とはまるで変った自分になりました。......私はこの九月から若い男として煩悶期に入りました。女│一口に言へばさうなのです。今の私には赤い花も、緑の海も、何等の感情を起さなくなりました。何をみても私はうれしくなくなった。迷ってゐる│」(従兄弟・山本俊一への手紙)
恭吉を思青期特有の「性への煩悶」が苦しめていた。悩ましい夜には、小雨の街を友人たちと連れ立って歌をうたいながらさまようこともあった。

4夢二学校
一九〇九(明治四十二)年十二月、竹久夢二の処女画集「春の巻」が洛陽社から出版されて以来、その名は一躍美術界にとどろくにいたった。
恭吉は夢二の抒情世界に深く共感していった。先輩の恩地孝四郎に紹介された「夢二学校」に通うことによって、ようやく創作への意欲をとりもどすことができた。 夢二は自分自身を画家としてよりも詩人として意識していた。夢二は「春の巻」序文に「私は文字のかわりに絵の形式で詩を画いてみた」と言っている。「絵は内より描くものと、外より描くものと二種に分ちたい。内より描く絵というものは、自己内部生活の報告だ」ともかいている。
恭吉は夢二のことばに深く共感した。これこそ恭吉のもとめていたものであった。眼にみえるものを描くのではなく、眼にはみえない自らの精神のうちがわを描くこと。恭吉のながらく求めていたものは夢二のいう「内より描く絵」そのものであった。夢二に心から傾倒した恭吉は夢二の住む上野への転居を決心する。夢二の住む上野倶楽部は不忍池畔にたつ四階建ての白い瀟洒なアパートで、美術学生や画家が多く寄宿しており、夢二自身も妻のたまきや子供たちとも別れて、一人で暮らしていた。

ある日の夕暮れ、恭吉は運命的に一人の青年、香山小鳥(藤禄)に出会った。小鳥は美校の彫刻科に入学したばかりであった。紅いトルコ帽とうす茶の毛糸のマフラーをまとった色白の青年であった。恭吉がその短い生涯のなかで、もっとも心を奪われた画友との宿命的とも言えるめぐりあいであった。小鳥との遭遇によって、恭吉にとっての新たな運命の糸がつむぎ出されることになる。そのときすでに小鳥自身も肺をむしばまれており、そのために煩悶する病弱な青年であった。

5恭吉の恋
四月のある日、外出した恭吉が部屋にもどってみると、香山小鳥の書いたメモが机の上におかれていて、そこには彼の親戚の娘が次の日曜日にやって来ること、自分も同行すること、娘は二〇歳であること、などが走り書きされてあった。
四月二十一日の朝、恭吉は約束された荒川堤へ出向いた。三人の女性が堤の原っぱで待っていた。いちめんに桜草が咲き乱れる原っぱに和服姿の若い美しい娘たちが立っていた。小鳥がその中の一人を親戚の娘として恭吉に紹介した。手交された名刺には住所と名前が記されてあった。その美しい娘の名は高崎栄子とあった。その夜、一人になって部屋にもどると恭吉はふところから名刺をとり出してみた。栄子のうつり香がほのかにたち登って来た。彼はその夜一睡もできぬまま一夜をすごした。
翌日は学校にも行かず栄子のことを想いぼんやりとしていた。たった一日の出会いで、恭吉の心は完全に彼女にとらわれてしまっていた。もう昼と夜の区別もつかず、飯もろくに食べられず、眠られない夜がつづいた。恭吉はついに栄子にあてた手紙をしたためた。封筒に入れると、自分の小指を小刀で切って、流れ出る血で封印した。そして二日の間、その手紙を抱いて街をさまよいつづけたあげく、ようやく赤いポストに投函した。そのとき栄子には、すでにきまった婚約者がいた。彼女は小鳥あてに、恭吉の愛をうけ入れることの出来ないことを委細をつくして書いた手紙を出した。小鳥は栄子の立場を知りながら、彼女を恭吉に紹介したのであった。何やらメフィストフェレスのようにも見える。青春の友情には妙な甘美さと残酷さとが同居するものなのであろうか。

栄子はまもなく恭吉のもとへ、バラの花束をもってあやまりに来た。栄子はうなだれたまま花束を恭吉にさし出した。「許してくださいな。わたしを無いものと思って下さい。夢と思って忘れてください。」としぼり出すような声でいうと、そのまま床に身を投げ出してすすり泣いた。恭吉はこみあげて来る想いに押されて、思わず栄子の着物の袖に顔をおしつけて泣いた。栄子はしばらくして「立派な芸術家になって下さい」と涙声で告げて去って行った。こうして恭吉の初恋はおわった。心身ともに傷つき果てた恭吉は次のような悲歌を詩うしかなかった。

・ 春ゆきて花みなあかし血のごとし
生くるに耐へぬいたき明るさ

・ くづをれて衣の薫を吸ひてありし
そのひとときの夢ごこちかな

6版画家田中恭吉の出発
恭吉の版画家としての出発を彩るのは喀血の赤い血の色であった。第一回の喀血におそわれるのは、一九一三(大正二)年十月五日のことである。

血の色の赤かりしことよ
手をあげてわれに終焉の来りしことを
告げたり
代々木駅の一隅に

深夜、大洋社のアルバイトでおそくなった帰りに代々木駅のホームで喀血したとき、はっきりと自分の死期を自覚した。当時結核は死病であり、医学の発達した現在の意識とは異なるものであった。
すでに予定された死と短く限定された生への緊張感が、恭吉の作画への意欲をますますかき立てていった。十一月十一日発行の「密室」第五号にのせられたただ一点のペン画「死に面接する心」は、奈落を思わせるくろぐろとした闇の宇宙に、一人の人影が浮かんでいる。その落下していく先はこの世の終末のくらい世界・地獄である。そのような死への恐怖にとらわれたまた無限に落下して行くおのれの喪失感にみちた作品であり、恭吉自身の切迫感を表現するものであった。

・ 眼を閉ぢてこの踏む地球の旅おもふ 淋しからずやこのつちめぐる

恭吉はこのような切迫感にかられながら、次々と作画や詩歌を発表して行ったが、しかし病はかくじつに進行していた。力をふりしぼって彫刀をとって木版にむかうが、一日一、二時間の作業さえときおり中断せねばならなかった。

・ 雪ちらちら大根畑に犬が吠ゆ
われも吠えたし犬のごとくに

・ うしみつどき豊島のはたけしんしんと
ふけて男の泣くねきこゆる

回覧雑誌「密室」の発展した公刊「月映」の発刊は、一九一四(大正三)年九月のことであった。恭吉の親友・香山小鳥は一九一三(大正二)年六月二十日朝、母と妹にみとられながら息をひきとっていた。二十二年四ヶ月の夭逝の生涯であった。恭吉は和歌山の実家に帰り静養をつづけながら「月映」に作品を発表しつづけた。当地では肺結核にもっとも精通しているといわれていた歩兵六連隊の軍医の診察を受けると「肺結核の二期の末で今のところ手のつけようがない」と告げられた。それは恭吉にとって死の宣告であった。

7恭吉の死
恭吉は絶対安静をつづけながらも「月映」にときおり死への緊迫感にみちたすぐれた作品の何点かを発表しつづけたが、その間、特筆すべきことは、のちに高名となるも、当時は全くの無名詩人であった荻原朔太郎からの処女詩集「月に吠える」のための挿画の制作の依頼であった。このもとめに対し生前の恭吉はこたえることは出来なかったが、死後恩地孝四郎の献身的な努力によってあつめられた遺作のなかから、恩地の選んだ数枚の挿画が「月に吠える」をかざった。詩集の発行されたのは一九一七(大正六)年二月十五日のことである。発行所は感情詩社と白日社で、初版五〇〇部、朔太郎による自費出版であった。
ときに、恭吉をおそった突然の死は、一九一五(大正四)年十月二十三日朝のことであった。継母のつくってくれた白粥をすすり水菓子をたべた。そして「おいしい。お母さまの粥の味がきっとわたしの胸の穴をふさいでくれますよ」と言ってほほえんだ。急変がおきたのはその直後であった。「恭...」とよびかける母の声にもう眼をあけることもなく、それきり動かなくなった。
ときに午前十時三十分│享年二十三年六ヶ月の生涯であった。翌日、恭吉の遺骸は浄土宗大立寺にて荼毘にふされた。法名「良心院達道居士」。墓石のそばには恭吉の好んだ黄水仙、グラジオラス、プリムラの苗がうつし植えられた。死をつよく予感していた恭吉はすでに己の死について詩っていた。

罌粟ちりき/かれ死にたり/いづれおなじことなり/
日は美はし/風はたのし/土は哭しみの領/空は歓びの支配/
あてにかかりて咲くなる/朱きいのちのふるへ。

四月十二日 中西 久夫

《参考文献》
1 月映の画家たち 田中清光
2 田中恭吉ふあんたぢあ 窪島誠一郎
3 田中恭吉作品集 玲風出版

次回は「恋の絵画」島村洋二郎について書きます。一九五三(昭和二十八)年、ついにむくわれることのない恋の世界の中で、無残に陋死した島村洋二郎の世界について語りたいと思います。

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