私の桜井浜江

私が油絵を描きだしたのは十六歳のときでした。某年某日、私は母より千円札をもらい右手掌に握りしめ、境線にのって米子まで行き、今もある画材店で油絵道具一式を買いました。紙幣は汗で湿っていました。絵具箱を買うには不足し、あとで絵具箱は手作りしました。

私が油絵を描きだしたのは十六歳のときでした。某年某日、私は母より千円札をもらい右手掌に握りしめ、境線にのって米子まで行き、今もある画材店で油絵道具一式を買いました。紙幣は汗で湿っていました。絵具箱を買うには不足し、あとで絵具箱は手作りしました。その頃、新制作展に登場したのは、新鋭の「古茂田守介」(一九一八〜一九六〇)でした。その絵を「アトリエ」誌上に発見しいたく感動しました。それから私は褐色と濃青を主調とした暗い「古茂田調」の絵を描きだしました。高校在学の三年間はデッサンと古茂田調に明け暮れました。

昭和三〇年に上京、大学に入学し、それから上野の美術展へ通い本物の油絵に接することが出来るようになりました。私が好んで見たのは新制作展、自由美術展、そして独立美術展でした。新制作展には、猪熊弦一郎・古茂田守介がおり、自由美術展には鶴岡政男、独立展には当時の有名画家達がひしめいていました。林武、高畠達四郎、児島善三郎、中川一政等、当時の日本洋画壇を代表する画家達でした。同展における桜井浜江は全くの無名でした。しかし私はなぜか桜井浜江の重厚な画肌にもっともつよく惹かれました。いつか大人になって金を貯めることが出来たら、古茂田と桜井の絵を買おうと心に決めました。幸いにも二十年程前、古茂田の絵十数点が市場に放出され、一〇号(F)と一五号(F)の油絵二点と、他に数点の素描を入手出来ました。素描は会社応接室にかざり、油絵の二点は自宅応接室に掲げております。桜井の絵は市場に出ることはなく入手出来ませんでした。

桜井浜江は昨年二月、九十九歳で逝去されました。ご遺族の福島行一様ご夫妻のご好意によって、この度、二〇〇号(一六〇×二六〇)一点を入手できました。その大作は十一月二十八日、会社の玄関正面壁面に掲げることが出来ました。
桜井浜江の絵には、人物・花・樹・海・山といった一応の題はついてはいますが、これは展覧会にかざるための便宜的なものにすぎず彼女が追求したのはその中に潜む大自然の本質のようなもの、いわば神のようなものであったと私は思います。

それは「集団的無意識」(ユング)のようなものであり、時空を超えて、人間の最古層の縄文一万年の古層の無意識に迫ろうとするものだと思います。
「深層無意識の核となる原始心象こそ、神と人間の深い関わり合いに関する最古の知識が埋没する膨大で無尽蔵の宝庫である」(ユング)

原始心象の現象化のために彼女は大型のペインティングナイフを振るったのです。彼女の作画の模様を私はビデオで実見しましたが、塗っては削り又塗りつける、ペインティングナイフと絵具のチューブを振りまわしてカンバスの回りを施舞するその姿はあたかも神との交歓の中で踊り狂う巫女のようでありました。「つまり私にとって衝動を実現するということが問題であって、結果はじつは知ったことじゃない。美しかろうが美しくなかろうが、うまかろうがまずかろうが、ひとがそう判断しようがしまいが、構わない。(略)人のために美しいものを描くというよりも、生命のしるしを自分に確かめる。あたかも重畳とした山嶺をいくつもいくつも自分の足下から全身に確かめ、ぶつけながら、走破してゆく気持と同じだ」(岡本太郎)

おわりに、彼女と同じくわが国最初の女性史研究者して孤高の世界を生き抜き「森の家の巫女」と呼ばれた(西川祐子)高群逸枝の詩を彼女への鎮魂歌として捧げたいと思います。

「巷にゆけばわがこころ 千の矢もて刺さる
その矢、心に痛ければ われはいつもあこがれりけり
去りゆかむといずこへか?
(略)
そが無人の平和の木の間を 遠く!遠く!
われとわが影を見失うところまで」

《参考文献》

1ユング自伝(1)(2)河合集雄他訳
2呪術誕生 岡本太郎
3森の家の巫女高群逸枝 西川祐子
4シャーマニズム(上)(下)ミルチア・エリアーデ、堀一郎訳
5日本語の源流を求めて 大野晋以上

十二月七日深更 中西久夫

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