信太妻物語

小さな未熟児として生まれ、10才まで生きることは難しかろうと言われた私を、母は夜抱いて寝てくれました。そして私が寝入るまで、夜の闇の中で様々な昔語りを聞かせてくれました。

私は昭和11年1月4日、大雪の中、小さな未熟児として生まれました。医師は私が10才まで生きることは難しかろうと言ったそうです。そうした虚弱児の私を、母は夜抱いて寝てくれました。そして私が寝入るまで、夜の闇の中で様々な昔語りを聞かせてくれました。その殆どは忘れてしまいましたが、成人してもなお覚えている和歌がありました。

“恋しくば たづね来て見よ 和泉なる 信太(しのだ)の森の うらみ葛の葉”

この歌が何に由来するものか分かりませんでしたが、後年大学に入って中世説話集を読んでいるうちに「信太妻(しのだづま)物語」に行き当り、ようやくその意味を知ることができました。それは次のような物語でした。

『昔、清少納言の枕草子に「杜は信太森」とうたわれた深い森が熊野街道沿いにありました。その森に聖神社・信太明神があり、ある日そこへ参拝に来た安倍保名(やすな)は、おりから狐狩りにあって森から逃げ出して来た一匹の狐を助けます。のちにこの狐は一人の美少女となって保名のもとに現れ、保名はこの少女と結婚します。その間に一子が生まれ、安倍童子と名づけて寵愛します。すぐに7年たって、ある秋の日、童子の母が乱菊に見とれているうちに、つい狐の正体を現わし、それを我が子に見とがめられ、夫に知れることをはかなみ、かくなった事情を細々としたためたのち、寝ている子に別れを惜しみながら、障子に“恋しくば たづね来て見よ 和泉なる 信太の森の うらみ葛の葉”の歌を書き残して立ち去ります。保名親子は跡をしとうて家を出ますが、母狐は信太の森深くへ溶け込んで、姿を消してしまいます。』(後年、成人した安倍童子は安倍晴明として平安朝の舞台で活躍することになります。)
この話はのちに、古浄瑠璃・説経節として語り継がれ、ついには歌舞伎としても上演され、有名になりました。(盛田嘉徳「中世賎民と雑芸能の研究」)

こうした母恋い物語は、わが国文芸の底流を貫くものとなり、数々の和歌・物語・記録として残されております。そのうちのいくつかを次にあげてみます。

(1)前田純孝

私の郷里にも近い兵庫県但馬で父純正と母うたの間に生まれた明治の歌人・前田純孝は、後に父母の離婚にあい、一子を連れて前田家に入った継母ゆきに満三歳より養育されますが、厳しいいじめを受けることになります。「母のいない」悲しみが、その生活と作歌に反映され、胸を打つ悲歌を生み出すこととなります。

・われ生れし第一日のあかつきに門にあたりて石つぶてふる
・母といふ文字多しとて歌せめな我の命は母にともなふ
・生れきて乳の甘味は知らぬ子の恋とおぼせよ歌とおぼせよ

純孝は一時期「明星」によって当時の明治歌壇にて活躍しますが、のちに労咳(肺結核)にかかり、妻子と離れて29才のとき帰郷し病床に伏します。

・風吹けば松の枝なる枝鳴れば明石を思ふ妻と子を思ふ

明石に残したまま、その後会うことのなかった妻子を思う歌が絶筆となりました。享年31才。(西村忠義「詳伝 前田純孝」)

(2)三好達治

詩人は明治30年8月23日、父政吉と母タツの間に生まれました。9人の弟妹のうち5人は病のため夭折。達治は明治39年他家に養子となりますが、間もなく祖父母のもとにひきとられます。

<乳母車>
母よ—
淡くかなしきもののふるなり
紫陽花いろのもののふるなり
はてしなき並樹のかげを
そうそうと風のふくなり

時はたそがれ
母よ私の乳母車を押せ
泣きぬれる夕陽にむかって
りんりんと私の乳母車を押せ
(中略)

三好達治は数々の秀作を発表し続け、昭和を代表する詩人となりました。昭和39年4月5日没。享年64才。(日本詩人全集21 三好達治)

(3)木村久夫

昭和21年5月23日、シンガポールのチャンギー刑務所にて戦犯刑死。陸軍上等兵。28才。以下二首は処刑前夜の作

・おののきも悲しみもなし絞首台母の笑顔をいだきてゆかむ
・風も凪ぎ雨もやみたりさわやかに朝日をあびて明日は出でまし

処刑半時間前擱筆す。 木村久夫(「きけわだつみのこえ」日本戦没学生の手記)

なげけるか いかれるか
はたもだせるか
きけ はてしなき わだつみのこえ

5月13日(母の日)深更

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