日本食品工業株式会社 会長 中西久夫のエッセイ

日食季刊誌『ひと粒』掲載。

日食季刊誌『ひと粒』に掲載。

長谷川利行は現在、画家として著名である。その作品をもとめようとすれば、数千万円の金が必要であろう。  
 しかし、当初利行が目指したのは文筆で生きることであった。「長谷川木(もく)葦(い)(利行のこと)集」によってその文筆のあとを眺めてみよう。
一) 喜多かつじ一二(つるあきら鶴彬)は、明治四十二年一月一日石川県河北郡高松町で、父松太郎、母寿ずの次男として生まれた。八才で父が死亡し、母が東京へ再婚したので、彼を含む四人の子供たちは、伯父(喜多喜太郎)の養子となった。
私が黒田三郎について書こうと思ったのは、最近、私が数十年、探し求めていた詩集「小さなユリと」を古書店の目録の中に見出し、購入したからである。
坂田一男は一八八九年(明治二十二年)八月二十二日、快太郎と八万重の長男として生まれた。
私がド・スタールの絵を初めて見たのは昭和四十二年頃。
美術雑誌の一頁を見てからである。その絵は一面コバルトブルーの虚空の中を数羽の黒い鳥がとんでいるという絵であった。私は一気に魅せられてしまった。
私は永らく吉岡の作品をもとめておりました。しかし彼の作品は州之内徹の手によって殆んどが仙台の宮城県美術館に収蔵されており、この世間にはないものと信じていた。
しかし画廊さんのご好意によって、その幻の一作を入手することが出来た。
私の喜びはこの上ありません。
神戸の生んだ高名な画家が二人いる。小磯良平と鴨居玲である。前者は淡麗典雅な画風で知られ、後者はそれとは対称的な情感おもむくままの奔放な画風で知られていた。
私は、鴨居玲の方を好む。
昭和三〇年春私は早大法学部に入学した。最初の下宿は高田豊川町の長屋風の建物であった。
今回は髙間筆子という奇妙な画家について、語りたい。何故奇妙なのか、その訳は現在彼女の絵は一点も存在しないということなのだ。
青い光、一つの不思議な香いを放つ青い光、無限に悲しく澄み切ってゆく、冷く、燃えひろがってゆく青い光」洋二郎は手帖にそう記した。
今回は薄命の版画家・田中恭吉の生と死について語ろうと思う。
私は一人の薄倖の画家について語りたい。山中春雄(一九一九年〜一九六二年)についてである。
イエスはおそらくヘロデ王治政(前三七〜四年)の末期に、ガリラヤの町ナザレに生まれ、紀元後三〇年頃ユダヤの都エルサレムにおいてローマのユダヤ総督ピラトラスにより十字架に処せられたものと思われます。
私は大学を卒業して、昭和三十六年四月レンゴー株式会社に入社しました。初任給は一万七千円でした。
私が油絵を描きだしたのは十六歳のときでした。某年某日、私は母より千円札をもらい右手掌に握りしめ、境線にのって米子まで行き、今もある画材店で油絵道具一式を買いました。紙幣は汗で湿っていました。絵具箱を買うには不足し、あとで絵具箱は手作りしました。
小さな未熟児として生まれ、10才まで生きることは難しかろうと言われた私を、母は夜抱いて寝てくれました。そして私が寝入るまで、夜の闇の中で様々な昔語りを聞かせてくれました。

わが国では従来、身体に対する効果的な機能としては、1次機能(栄養)、2次機能(味覚)の2つの機能しか考えられていませんでした。しかし最近、食品はこの2つの機能のほかに3次機能(体調調節)を備えていることが明らかになってきました。